Yes we canオバマが言ってるYes we can今度はぼくがYes we can
ほぼ定時で帰る女性職員と違い、残業が当たり前、時には泊まり込みもある男性職員には出会いが無い。気の利いた上司が縁談を持ってくることもあるようだが、そうでない者はずるずると独身を貫く傾向にあるようだ。斎藤がこの歳まで独り身なのも、この環境が大きな要因なのだろう。こんな環境だから、女性職員は男性職員の福利厚生的な扱いもされている。要するに“花嫁候補”というやつだ。
も入庁したての頃は、これまでの人生では考えられないくらい言い寄られたものである。ある日突然、美人になったのかと思うほどだった。実際は美人になったわけではなく、若い女というだけで貴重だっただけなのだが。
その証拠に、古参の部類に入った今では、男性職員の声がかかることも全くと言っていいくらい無くなった。たまに話しかけられたかと思えば、業務連絡である。入庁したての頃のあれは何だったのかと思うほどの変わりようだ。
まあ、新人が入ってくれば、そっちが良いに決まっている。若いしスレていないし、男から見れば魅力的だろう。掌を返すような対応はどうかと思うが、男性職員の気持ちは解る。
「あー、またやってるよ」
昼休み、いつものように食堂で食べていると、市子がにやにやしながら小声で言った。視線の先には、新人の女の子に話しかけている男性職員の姿があった。
あの男性職員は古田といって、たちが新人の頃にもやたらと絡んできていた。親戚にお偉いさんがいるそうで、上から目線のいけ好かない奴だった。
何を話しているのか解らないが、古田は熱心に話していて、新人は一寸微妙な顔をしている。強引すぎるところがある男だから、距離を置かれているのかもしれない。
「押すばっかりじゃ駄目だよねぇ。全然成長してないよ」
市子は呆れたように言う。どうやら彼女も古田に言い寄られたことがあるらしい。
市子の言う通りだと、も思う。ぐいぐい押すのも大事だが、あまり押しすぎると女の方がドン引きだ。もドン引きして逃げたクチである。
押しすぎると逃げられるというのは自分にも当てはまるのだろうかと、は少し考える。自分では押しが足りないと思うくらいだが、もともと一人が多い斎藤にしたら鬱陶しいくらいなのかもしれない。
「私も一寸は引いた方が良いのかなぁ………」
話しかければ不機嫌にしてしまうような状態である。いっそ黙っているのも手のような気がしてきた。
「まあ、今まで熱心に話しかけていたのが黙ったら、一寸は気になるかもね」
「そうかな?」
市子にそう言われたら、引いてみるのも良いような気がしてきた。黙っているのことが気になって斎藤の方から話しかけてきたら、しめたものだ。
希望が見えてきたに、市子は現実に引き戻すように冷静に付け足す。
「ま、向こうに気が無かったら、それまでだけど」
「………………」
せっかく盛り上がった気持ちも萎んでしまう。けれど、斎藤がに関心を持っていなければ、引いたらそれっきりというのは正しい。
駆け引きというのは、相手にその気があって初めて成立するものである。斎藤がどう思っているのか判らないうちは、迂闊に引くのは危険だ。
多分、はまだ斎藤に嫌われていないと思う。“嫌われていない”から“気になる”までは話しかけまくるしかないかな、とは古田を見ながら思った。
話しかけるのはいいが、斎藤が好みそうな話題というのは何だろう。世間話では触れてはいけない部分に触れてしまうから、違う方向から攻めなければ。
しかし仕事人間の斎藤の趣味というのは、市子にも調べがつかないものらしい。無駄話は一切しない人だから、誰も知らないのだそうだ。
遠くから見ていた時は、“謎めいた人”なんて格好良いと思っていたけれど、距離を詰めようとなると難儀なものだ。のようなぼんやりとした女には難易度が高すぎるのかもしれない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、女の甲高い声が聞こえてきた。
「困ります! そんなの………」
何だかよく分からないが、女の声は切羽詰まっている。仕事の話ではないような雰囲気だ。
野次馬みたいだと思いながら、は声のする方へ向かった。
角を曲がると、廊下の真ん中で揉めている男女の姿があった。古田と、昼休みに話しかけられていた新人だ。
「いいじゃないか。洋食屋に行きたいって言ってただろ」
「だって、そんな………」
古田に腕を掴まれ、新人は泣きそうな顔をしている。学校を出たばかりの女の子には、こういう強引すぎる男は恐ろしく感じるのかもしれない。
これは助けた方が良いのだろうかと思ったが、相手はお偉いさんの縁者である。下手に関わって睨まれるのは、正直困る。
けれどこのまま知らぬふりをしているのも気の毒だ。もこの新人のように絡まれて困ったことがあるから、他人事とは思えない。
どうしようかともたもたしていると、古田がに気づいた。
「何見てんだよ」
女と揉めているところを見られてばつが悪いのか、古田は怒ったような顔をした。
強面の男から凄まれると、小心者のは萎縮して声がでない。何か言わなくてはと思うのだが、もぞもぞするだけで挙動不審になってしまう。
「何だ? 年増には用は無いんだよ」
を年増と言うなら、それより年上の古田はオッサンだ。新人だってオッサンには用は無いだろう。女も好意を持っていなければ、オッサンに強引に誘われるのは迷惑だと思う。
「あの……嫌がってるのを無理矢理付き合わせるのは………」
思い切っては意見する。思い切った割には尻すぼみになってしまっているが。
いくら思い切っても、こんな弱々しい言い方では効果があるはずもない。案の定、鼻先で笑われてしまった。
「お前には関係無いだろ」
「でも、困ってるみたいですし………。だから今回は引いてあげてください」
「何だ、若い子に嫉妬してるのか?」
何を勘違いしているのか、古田はにやにやする。その顔にカチンときて、は思わず大声を出した。
「私にだって選ぶ権利はあります! 勘違いしないでくださいっ」
言ってしまった後、強烈な一言だと気付いた。も新人の頃、古田に粉をかけられて全力で逃げたことがあるのだ。何年も前のことだから相手が覚えているか分からないが、覚えていたとしたら最悪である。
当時のことを思い出したのか、の言葉に腹を立てたのか、古田は顔を紅くした。が、すぐに平静を装うと、新人から手を離してに近づく。
新人が解放されたのは良かったが、標的が自分に変更されたことを察して、は今更ながら焦った。この男に絡まれると長いのだ。
ぶっちぎって逃げようかとも考えたが、ここでが逃げてしまったら、さっき以上にあの新人が絡まれてしまうのは確実。あんなことを言われたら古田も意地になっているだろうし、その気は無かったとはいえ煽った張本人が逃げるのは無責任だ。
「ほ〜ぉ、随分偉そうじゃないか。自分の立場解ってんのか?」
腹を据えて睨みつけるの顔が可笑しいのか、古田は嘲るように言う。続けて、
「親が時流を読めない人間だと、子も立場を弁えなくなるもんだなあ」
職員の出自は、公表されなくてもお互い何となく判っている。そのことで上下関係ができたり差別が生まれるのは日常茶飯事で気にしてなどいられないが、こんな時にまで持ち出されるとは。しかも、を馬鹿にするならともかく、親まで持ち出すのは許せない。
こんな下司な男に腰が引けていたのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。偉そうにしているが、偉いのは親戚であって古田ではないのだ。勝ち馬に乗っただけの人間の、何が怖いものか。
「私はあなたみたいに笠に着れる親戚はいないけど、ものを言う権利はあると思います!」
「俺がいつ笠に着たよ?!」
一応自覚しているのか、古田は顔を紅くした。大声を上げたのは、そうすればが萎縮すると思ったのだろう。
が、今回はも負けずに言い返す。
「ほら、そうやってすぐ怒鳴る! お偉いさんの親戚だから、そうやって怒鳴るんじゃないですか! そういうの、みんなちゃんと見てるんですからねっ」
興奮しているせいか、自分でも驚くほど大きな声が出た。勢いに乗って、これまでの不満をぶちまけるように言葉を続ける。
「その子に声をかけたのだって、どうせ自分が強く出られるからなんでしょ! 断れない子ばっかり狙うなんて、卑怯だと思います!」
の時もそうだったが、古田が狙うのは気の弱そうな新人ばかりなのだ。市子が言っていたけれど、そういうのは自信の無い証拠らしい。弱い相手にしか強く出られないなんて、以上の小心者に決まってる。
そう思ったら、真っ直ぐに古田を睨みつけることができた。が強気になるのとは対照的に、今度は古田が怯む。
「お……俺は別に………」
怒鳴られるかと思ったら、意外にも弱々しい声だ。目は相変わらずを睨みつけているが、明らかに気圧されている。
一寸勇気を出しただけでこんなに変わるなんて思わなかった。もう一押しすれば、完全にやっつけられそうだ。
が口を開こうとした時、後ろからぐいっと肩を掴まれた。
「こんなところで何してる。昼休みは終わったぞ」
そういったのは斎藤だ。外回りから帰ってきたところらしい。
「あ、えっと、この人が………」
突然の登場にぎょっとしながらも、は状況を説明しようとする。話を聞けば、斎藤も古田を注意してくれるはずだ。
が、斎藤はこの状況にも関心が無いようで、の方を見もせずに古田と新人に言う。
「二人とも仕事に戻れ」
ほっとしたような新人はともかく、古田は何か言うかと思ったが、面白くなさそうな顔をしただけで黙って引き下がった。きっと小心者だから、男の斎藤には何も言えないのだろう。
この場が収まったのは斎藤のお陰かもしれないけれど、には不満だ。あんな簡単に解放しては、また新人にちょっかいを出すに決まっている。斎藤の口からもガツンと言ってほしかったのに。
「あの………」
「女の前であれだけ言われたら、暫くは大人しくなるだろうさ。あの手の男はあまり追い詰めると、殴りかかるか嫌がらせを始める。適当なところで退いておけ」
が言おうとしたことを、先回りで答えられてしまった。
斎藤の言うことはその通りだけど、それでもは納得いかない。立ち直れないくらいやっつけられたことが無いから、古田はあんなに傲慢なのだと思うのだ。一週間もすれば元に戻るに決まっている。
「でも―――――」
「親のことを持ち出されて収まらないのは分かるが、お前は退いておけ」
「……………」
どうやら斎藤は随分前から見ていたようである。それならもっと早くに出てきてくれても良さそうなのに。隠れて様子を窺っていたのかと思ったら、は腹が立ってきた。
「見てたなら、もっと早く出てきてくださいよ! 警部補が出てきてくれてたら、もっと早く片付いたかもしれないのに」
「お前の勢いが凄かったからな。あんなに喋るとは思わなかった」
「〜〜〜〜〜」
に抗議されても、斎藤は平然としたものである。
頭に血が上っていたとはいえ、あれは少し言い過ぎたとは、今になれば思う。普段のとは別人だったから、斎藤も引いてしまったのかもしれない。
けれどあれは、助けてくれる人間がいなかったからだ。斎藤がいると分かっていたら、彼に任せて大人しくしていた。
「あれは私が何とかしなきゃいけないと思ったから―――――」
「うん、よく頑張ったよ」
その声と同時に、頭を押さえつけられた。ぐりぐりと撫でられたと分かったのは、斎藤の手が離れてからだ。
いきなりのことには唖然としてしまう。乱暴だけど、これは多分褒められたのだろう。不機嫌にさせてばかりで褒められることなんて無かったから、嬉しいよりもびっくりだ。
斎藤を見上げようとしたら、さっさと前を歩いていた。「よく頑張ったよ」と頭を撫でてくれた時、どんな顔をしていたのだろう。声は優しかったから、少し笑っていたかもしれない。
「………………」
撫でられたところに手を当ててみる。
褒めてくれたのだから、のあれには引かなかったと思いたい。少しは見直してくれたかな、と期待しても良いような気もしてきた。
そういえば斎藤も、の父親と同じく時流に乗れなかった側の人間だ。親のことを持ち出されて頭に血が上ったの姿に共感したのかもしれない。
周りに関心が無いように見える斎藤だが、彼なりにいろいろ思うところがあるのかもしれない。が古田にああ言ったことで、斎藤の心が少しでも晴れたらと思う。
その後、古田と例の新人の様子を観察していたが、ちょっかいをかけてはいないようだ。斎藤の言う通り、目の前であれだけ言われたら格好悪くて女を口説くどころではないのかもしれない。
「あいつ、上から説教されたらしいよ。これで今年の新人は安全だね」
そう言って、市子は可笑しそうに笑う。市子も威張り散らす古田のことは嫌いだったから、いい気味だと思っているのだろう。
に言われたからではなく、上司に説教されたからなんて、新人が直訴したのだろうか。大人しそうに見えたが、行動力があるものだ。
が首を傾げていると、市子はとっておきの秘密を披露するように言った。
「藤田警部補が、あの新人に付き添って直訴したんだって」
「警部補が?」
意外な名前が出てきて、は驚いた。斎藤はそう言うことに首を突っ込むのは嫌いそうな感じなのに。
「珍しいよね。何があったんだろ」
市子の口調は疑問形だが、理由は大体分かっているようだ。を見ながらにやにやしている。
のあれを見て、斎藤も動いてくれたのだろうか。そうだとしたら、も頑張った甲斐があったというものだ。
「どうしたんだろうね」
新人が解放されたのは勿論嬉しいけれど、斎藤が協力してくれたことが何よりも嬉しい。初めて認められて気分だ。
少しは距離が縮まったかな、とは期待してしまうのだった。
今では信じられないことだけど、バブル期の商社や銀行では女子社員は“花嫁候補”として採用していたらしい。商社では新人女性と教育係の男性社員でペアを組ませるところもあったのだとか。そんな時代もあったんだねぇ。
いい加減歩み寄らせなければ、ということで、一寸は歩み寄れたかな?今回は斎藤の出番が少なかったけど、次回は普通に出てきます。