『持ちますよ』『重いですからいいですよ』『重いからこそ持ちたいのです』

 斎藤が担当する事件は、どれも資料が多い。広域に跨る事件も多いようで、各県警から送られてきた書類を分別するのも大変だ。あっという間に棚は書類で占領されてしまう。
 そして事件が解決すれば、この書類の山は倉庫へ即行だ。次々倉庫行きにしないと、棚が溢れてしまうのだ。
 犯人が逮捕されれば、とりあえず倉庫行き、裁判が始まって証拠書類を求められれば、倉庫から探し出すことになる。これもの重要な仕事の一つだ。
 そして今日は、とある人斬りに関する捜査が終わったので、これを倉庫に持って行かなくてはならない。被疑者死亡で裁判も無しだから、この書類が日の目を見ることは無いだろう。
 こういう書類が、扱いには一番楽だ。裁判にでもなれば、一日何度も倉庫と執務室を行き来するはめになってしまう。被疑者死亡というのは警察には敗北かもしれないが、には好都合な案件なのだ。
 人斬りの犯行期間は短いものであったが、狙いが大物政治家だったせいで、資料は膨大だ。まったく、迷惑な犯罪者もいたものである。
 綴った書類の束を箱に投げ入れ、ぎゅうぎゅうに詰めて蓋をする。紙は纏まると重いから、できれば余裕を持って入れたいところだが、経費削減とやらでまともに箱をくれないのだから仕方がない。こんな無茶な詰め方をしたら、いつか腰を痛めるのではないかと、は心配だ。
 幸い、台車を借りることができたので、途中までは楽だ。問題は、階段を下りて一階の倉庫に運び込むところである。一番きついところが人力なんて、最悪だ。
 とりあえず階段の所まで台車でまとめて箱を運んで、一つずつ倉庫まで抱えていくしかない。終わる頃には足腰ががくがくになりそうだ。
「やれやれだわ………」
 積み上げた箱を見て、は溜め息をつく。この箱を全部運び終えるのに、どれくらいかかるのだろう。
「よっ、と………」
 最初の一箱を持ち上げる。書類一束はそれほどの重さではないが、一箱となると暴力的な重さだ。いきなり腰にきた。
 足元に注意しながら、そろそろと階段を下りる。階段で足元が見えないのは一寸した恐怖体験だ。
 と、斎藤がこちらに歩いてきた。警邏から戻ってきたのだろう。
「何やってるんだ?」
 何をやってるのかと問われても、見ての通りである。
「書類を倉庫に持っていこうかと………」
「あれ全部か?」
 斎藤が階段の降り口を見上げる。
「ええ、まあ………」
「結構あるな。手伝おう」
「えっ、あ、いや、いいですよ! 重いですから」
 素直に頼めばいいものを、咄嗟に断ってしまった。どうでもいい男なら平気で頼むくせに、好きな相手だと変に格好付けたくなってしまうのだろう。
 ここで甘えてみれば新展開が待っていたかもしれないというのに、自分から逃してどうするのか。これでは新展開の入り口にも立てないではないか。
 思い切り後悔しているの横を、斎藤が歩いていく。そして一箱持ち上げて、
「重いから手伝うんだよ」
と、さっさと階段を下りていく。斎藤も足元は見えないはずなのに、と違って足運びに迷いが無い。感覚が鋭いのか何なのか、大したものである。
 ―――――などと感心している場合ではない。トロトロやっていたら、斎藤に全部片づけられてしまう。
 もできるだけ急いで階段を下りた。





 二人がかりでやったお陰で、作業は思ったより早く終わった。殆どが斎藤に運ばれてしまったが。
「えっと、あの……ありがとうございました」
「うん」
 礼を言ったものの、斎藤の態度は素っ気ない。肉体労働後の一服の方が大事なようだ。
 書類の移動を手伝ってくれたところを見ると、別にを嫌っているわけではないようだ。好きだというわけでもないだろうが、普通に部下として扱える程度といったところか。まあ、嫌われてなくて良かった。
 煙草休憩の間は話しかけても大丈夫そうである。は思いきって話を切り出してみた。
「警部補の事件って、いつも書類が多いですよね。あの人斬りの事件だけでもあんなにありましたし」
「まあな」
「今抱えているのも、すぐに棚が一杯になりそう」
「だろうな」
 口下手なのか話すのが面倒なのか、斎藤との会話は続けにくい。普通ならもう少し話を膨らませそうなものだが。
前情報で無口だとか人間嫌いとか知らなければ、嫌な人間だと誤解しそうだ。きっと今までも、そうやって誤解され続けてきたのだろうと思う。
 その“無口”にしても“人間嫌い”にしても、きっと過去のことが影響しているのだろう。市子から聞いた話では、の想像を絶するような体験をしてきたらしい。そんな経験をしたら、人間嫌いにもなるし、無口にもなると思う。
 市子の父親も、御一新を境に人が変わったらしい。戦争に行かなかった人間でさえそうなら、最後まで最前線で戦っていた斎藤は尚更だ。しかも今は新政府の下で働いているのだから、もっと複雑なのだろう。
 いろんなものを抱えて屈折しているのかもしれないけれど、の作業を手伝ってくれたのだから、斎藤は本当は良い人なのだ。心理的な距離が縮まれば、きっとこの話しづらい雰囲気も柔らかくなると信じたい。
 だからは、自分を奮い立たせて話しかける。
「こっちに来てから間もないから分かんないですけど、いつもこんな感じなんですか?」
「今日のは少ない方だ。今のはもっと多くなる」
 斎藤は相変わらずつまらなそうだが、一寸話を広げられそうな雰囲気になってきた。この流れを壊さないように、は平静を装いつつ尋ねる。
「今の事件、そんなに大きな事件なんですか?」
「………そのうち分かる」
 触れてはいけないことだったのか、斎藤はそのまま黙り込んでしまった。
 そういえば斎藤の仕事は、内部の人間にも話せないようなものばかりだった。今になって思い出して、は質問したことを悔やんだ。
 斎藤が煙草を揉み消す。いつも通りなら、また外出するだろう。せっかく話せる機会ができたのに、このまま出て行かせるわけにはいかない。
 斎藤が席を立つ前に、は急いで別の話題を振った。
「警部補って、意外と力持ちですよね。やっぱり男の人は違うな〜、って」
「そんなに弱そうに見えるか?」
 褒めたつもりが、逆に取られたらしい。“意外と”が良くなかったのだろう。
 引き留めようと焦って、あまり深く考えてなかった。斎藤の表情は変わらないが、怒っているかもしれない。何しろ相手は元新撰組である。力には自信があるだろう。
 は慌てて弁解する。
「いや、そうじゃなくて、細いのにあんな重い箱を軽々持てるなあ、って」
 これまた褒めているのか何なのか分からない言い種である。女に“細い”は褒め言葉だと思うが、男には微妙だろう。もう今日は何も言わない方が良いのかもしれない。
 案の定、斎藤は一寸微妙な顔をした。しかし怒っているわけではないらしい。
「まあ、太りにくい体質なんだろう」
「いいなあ。私、太りやすくって困ってるんですよ」
 が言った後、また斎藤は微妙な顔をした。
「………若いときに一気に痩せたことがあったからな。そのせいだろう」
「………………」
 また触れてはいけないことに触れしまったらしい。斎藤の応えに間があったところに、いろいろなものが凝縮されているようだ。
 戦後の会津の悲惨さはも知っている。餓死や凍死が日常的だったらしい。幸いにもには飢えた記憶は無いが、飢餓というのはそれは辛いものなのだそうだ。それに寒さが加わるのだから、地獄のようなものだっただろう。
 一応、は斎藤の過去を知らないことになっているが、それでも嫌な過去をほじくられるような言葉は不愉快なものだろう。今日はもう何も話さない方が良いのかもしれない。
 が黙り込んでいると、斎藤は何でもないような軽い調子で言った。
「ま、食べて太るのは健康な証拠だ。気にするな」
「はあ………」
 にしてみれば食べても太らない体質が羨ましいのだが、斎藤にしてみれば飢餓を知らぬ健康な体ということなのだろう。しかし斎藤の言葉をそのまま肯定すると、彼が不健康と言っているようなもので、の返事は曖昧なものになる。
 そのまま黙っていると、斎藤は話を切り上げるように立ち上がった。
「一寸出かける」
 この時間は警邏に行くことが多いから、との会話が不愉快だったから出て行ったというわけではないと思いたい。しかしこの流れでは、やはり不愉快だったのかと思ってしまう。
 せっかくまともに話せる機会がやってきたのに、これだ。他にももっと話すことはあったろうに、どうしてこうなるのか。は頭を抱えたくなった。
<あとがき>
 斎藤の性格は生まれ持ったものだと思うので、気にするな。そんなことよりも、当時の男性に対して「細い」とか言うなよ。主人公さんはいらぬ口を叩いてしまう性格のようです。
 戦前までの日本人の感覚は、細い=貧相。「どうしたら太れるでしょうか」という相談や、「太り薬」の広告が大正時代の新聞に載ってたりしたものです。美人の表現に「ふくよか」が使われていた時代、私もその頃に生まれたかった(笑)。
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