唇が触れた瞬間終わってただけどそこからまた始まった

 ついに斎藤との月見である。この日のために料理の勉強もした。市子や飯島にも味見をしてもらって、万全の体制だ。
 着物も足袋も新調して(念のために下着も新調した)、これで完璧なはずである。あとは余計なことを言わなければ、きっとうまくいく。
 告白しようと決めて数ヶ月、これがどんなに長かったことか。頭の中であらゆる状況を想定し、どんな展開になっても大丈夫なようにも考えた。今回は何が何でも失敗は許されない。
 これまでの流れから考えて、斎藤に断られる可能性は限りなく低い。ひょっとしたら、斎藤から告白される可能性だってある。今まで何度も一緒に食事をして、あれは逢引と言えないこともないし、にだけは軽口だって叩いている。現時点では特別扱いなのだ。
「よし、できた!」
 重箱に詰まった料理を見下ろして、は満足げに呟く。
 今日のために毎日練習しただけあって、見た目も完璧だ。仕出し屋のようにとまではいかないけれど、素人にしては上出来だと思う。きっと斎藤も美味しいと言ってくれるに違いない。
 男を落とすには胃袋を掴むのが一番だと、飯島が言っていた。見た目は半年で飽きるけれど、料理が上手ければあと半年はもつらしい。合計で最長で一年しかもたない計算になるが、斎藤の性格であれば長期戦に持ち込めば腹を括るだろうとも言っていた。
 長期戦に持ち込むなら、酒の肴だけでなく家庭料理の練習も必要だ。得意料理を増やしていけば、飽きるまでの期間も引き延ばせるに違いない。そうなればこっちのものである。
 とにかく今日の料理が勝負である。は今から緊張してきた。





 斎藤の家は思っていたよりも近所だった。こんなに近くに住んでいたのに、今まで会うことが無かったなんて不思議なくらいだ。
「こんばんは〜」
 玄関先で声をかけるが、返事が無い。今日は非番だから家にいるはずなのだが。約束の時間までに少し時間があるから、もしかして買い物に行っているのだろうか。
 念のために戸に手をかけると、鍵が開いていた。斎藤の性格から考えて、近所へ買い物に行くにしても鍵は掛けて行くだろう。ということは、斎藤は家にいるはずだ。の声が聞こえなかったのかもしれない。
 勝手に入っていいものか迷いつつも、は玄関に入った。
「警部補〜、おじゃましま〜す」
 もう一度声を掛けてみるが、返事が無い。もしかしたら月見の用意に夢中になっているのかもしれない。
 が、部屋を見ても縁側に行っても、斎藤の姿は無い。やはり買い物に行っているのだろうか。警官なのに鍵も掛けずに外出だなんて、無用心なことだ。よほど大事なものを買い忘れたのだろう。
 と、木戸の向こうで小さな音がした。どうやらこの部屋に斎藤はいるらしい。
「なーんだ、警部補、そこにいたんです―――――」
 木戸を開けただったが、中を見た瞬間、硬直してしまった。
 悪いことに、そこは脱衣所だったのだ。しかももっと悪いことに、斎藤は風呂上りの全裸である。まさか此処が風呂場だとは、しかも斎藤が風呂に入っているとは思わなかった。
「うわっ! うわっ!」
 あまりのことに、びっくりしすぎては身体が動かない。重箱の包みを落とさなかったのが奇跡的だ。
 人夫が褌一丁で土木作業をしているのはよく見るから、男の裸を見るのが初めてというわけではないけれど、今回は全裸である。しかも相手は斎藤だ。上半身はともかくとして、下半身が衝撃的過ぎる。
「いやっ、あのっ……うわっ………!」
「いいから閉めなさい」
 尋常ではないほど気が動転しているに、斎藤が落ち着いた声で言う。声は落ち着いているが、斎藤も気が動転しているのだろう。いつもと口調が違う。
「閉めっ……どっどう………!」
 普通の引き戸なのだから特別な閉め方などないのだが、頭の中が全部吹き飛んでしまっている。
 無駄にじたばたしているの姿を見ているうちに斎藤の方が落ち着いたのか、無言で戸を閉めた。





 最悪の状況である。
 自分の性格を鑑みて様々な状況を想定していたのだが、これはにとっても想定外だった。本人がそうなのだから、斎藤はもっとだろう。
 料理も服も完璧だったのに、こんなところに落とし穴があったとは。今回については、自分から全力で落とし穴に飛び込んだ感じではあるが。
 今思えば、どうして返事がないのに家に入ってしまったのか。大人しく玄関で待つべきだったのだ。浮かれすぎて、基本的なことをすっ飛ばしてしまっていた。
 せっかくこれまで何とか上手くやっていけたというのに、全部ぶち壊しだ。告白どころか、嫌われてしまったに違いない。
「あ〜………」
「あ〜って言いたいのはこっちだ、阿呆」
 自己嫌悪で頭を抱えているの頭上から、斎藤の声が降ってきた。
「うわぁっ?!」
 座ったまま、はぴょんと跳ね上がる。
 当たり前のことだが、今の斎藤はきちんと着物を着ている。私服姿を見るのは初めてのことだが、今のにはそれを新鮮だとか感じる余裕は無い。
「まったく………。何かやらかすとは思ってはいたが、風呂に来るとは思わなかったぞ」
 斎藤は完全に呆れ返っている。もう怒る気にもなれないのだろう。
 小さくなっているに、斎藤は続けて言う。
「とりあえず、予定通り月見をやるぞ」
 追い返されるかと思ったら、月見はやるらしい。が思っているほど怒っていないのか、約束は守らなければならないと思っているのか。斎藤はきっちりした性格だから、後者の可能性が高い。
 けれど、の力作は無駄にせずに済んだのだ。まだ逆転の目は残っている。今日の料理は自信作だから、きっと斎藤も見直してくれるだろう。
「はい!」
 さっきまでこの世の終わりくらいの落ち込みようだったのが一転、は前向きになって元気よく返事した。





「ほう………」
 重箱の中身を見て、斎藤は感心したように小さく声を上げた。どうやら彼の予想を大幅に上回る出来だったようだ。これは好感触である。
 問題は、味だ。市子と飯島には太鼓判を押されたけれど、斎藤はどうだろう。
「今日のは自信作なんで、たくさん食べてくださいね」
 そう言って、は重箱を斎藤の前に押し出す。
「それは楽しみだな」
 がよほど自信に満ち溢れた顔をしていたのだろう。斎藤は可笑しそうに言うと、早速箸をつけた。
 斎藤の反応を、は固唾を呑んで見守る。これで好感触だったら、告白決定だ。
「そんなに見られていると、食いにくいんだが………」
 斎藤が非常に気まずそうな顔をする。
「すっ……すみませんっ!」
 は慌てて下を向いた。
 もう何もかもが駄目すぎる。可愛らしく反応を窺えばよかったのだろうが、この斎藤の様子では全力で見ていたに違いない。凄い顔をしていたのではないかと思うと、もう穴があったら全力で埋まりたい気分だ。
 そう思いながらも、は斎藤の箸の動きをちらちらと見てしまう。不自然な動きは無いようだから、まずくはないのだろう。
「箸なんか見てないで、月を見たらどうだ?」
 気付かれていないと思っていたら、斎藤はしっかり気付いていたらしい。流石は人を見る仕事をしているだけはある。
「いやっ、あの……お口に合ったかなって思って………」
 動揺しすぎて、は声が裏返ってしまう。
 月見なんて言っているけれど、本当は月なんてどうでもいいのだ。というより、月なんか見ている場合ではない。今日はの人生を左右するかもしれない日なのである。
 けれど斎藤はというと、当然ながらそうは思っていないようで、料理をつまみながらいつもの調子で、
「ああ。酒にも合うし、いいと思うぞ」
「本当ですか?!」
 第一関門突破である。は思わず身を乗り出した。
 の勢いにぎょっとしたか、斎藤は少し身を引いて、
「嘘を言ってもしょうがないだろう。料理は得意なんだな」
「よかったぁ。今日のために凄く練習したんです。友達にも何度も味見をしてもらって―――――」
「随分と気合入れてたんだな」
 斎藤の言葉に、ははっとして顔を紅くした。
「いや、あの………」
 告白の成功に繋げるのだから、気合が入っているのは当然である。しかしそれを斎藤に感付かれたら、意識しすぎてやりづらくなってしまうではないか。
 否、いっそのこと感付かれた方が、斎藤の方から何か言ってくれるかもしれない。斎藤から言ってくれるのなら、これほど嬉しいことはないけれど、どうもからの告白を楽しみにしているような節もあるし、そうなるとやはりこちらから話を切り出すべきなのだろうか。
 そうすると、言うなら今しかないような気がしてきた。
「警部補に食べてもらうってなったら、気合だって………。今日は特別な日ですし………」
 言うと決めたはいいものの、いざとなると決定的な一言が出てこない。告白をするというのも初めてのことだし、恋愛感情を抜きにしても誰かに「好き」と言うのは初めてのことなのだ。
 市子と飯島の時は、そういうはっきりとした言葉は無くて、「何となくそうなった」らしい。この「何となく」が曲者で、と斎藤も「何となく」な空気にはなっているはずなのに、この体たらくである。「何となく」とは一体何なのか。
「特別か………」
 斎藤は楽しそうに口許を綻ばせている。が何を言うつもりなのか、もう解っているような顔だ。
 ここまできて、この表情であれば、玉砕ということはありえない。は思い切って口を開いた。
「今日、絶対告白しようと思って、だから、えっと………」
 言っているうちに頭に血が上って、訳が分からなくなってきた。
 告白しようと思ったのは事実だが、斎藤に伝えなければいけないのはそこではない。「好きです」と言ってから、「今日、絶対告白しようと思って」というのが正しい流れだ。順番を間違えた。
「あ、いや、そうじゃなくって、いや、告白はするつもりなんですけど!」
 軌道修正に必死になるが、焦り過ぎてはますます意味不明なことを口走ってしまう。もう何もかもがぐだぐだだ。
 思えば、今日は出だしから酷かった。あれは、今日は止めておけという警告だったのかもしれない。今となっては何もかもが手遅れなのだが。
 出来ることなら、家に入るところまで時間を巻き戻したいくらいだ。それが無理なら、告白云々のところまででもいい。まあ、どちらにしろ無理な話なのだが。
 思っていたのと全然違う流れになってしまって、は涙目になってしまう。もともと肝心なところで駄目になってしまう性分ではあったけれど、今日は最悪すぎだ。
 どうしようもなくなって、下を向いて唸っているの肩を、斎藤が突然掴んだ。
 驚く間も無く斎藤に抱き寄せられ、の唇に柔らかなものが当たった。
 一瞬のことで何が何だか分からなかったが、接吻だとが気付いた時には、斎藤はもうさっきと同じように杯に口を付けていた。さっきのはの妄想だったのかと思うほどの変化の無さだ。
「あの……今の………」
 さっきのは妄想だったのか現実だったのか、は頭が混乱してきた。告白も碌にできなかったのに、いきなり接吻だなんて。
 嬉しいのは嬉しいけれど、現実感が無い。とはいえ、もう一回と言えるはずもなく、何だか狐に摘まれたみたいだ。
 斎藤は杯を空けて、
「まあ、今後に期待だな」
 冗談めかした口調で、あれは現実だったのだと、やっとは理解した。と同時に、あまりの衝撃に倒れそうになる。
 あんなぐだぐだな告白の後に、これなのだ。市子たちが言っていた「何となく」とは、これだったのか。には刺激が強すぎだ。
「あのっ……今後って………?」
「これから付き合うんだろ? 上司と部下としてじゃなくて」
 まだ混乱しているとは対照的に、斎藤は平然としたものだ。これが大人の落ち着きというものなのかもしれない。
 は告白することだけで頭が一杯だったけれど、斎藤の言うようにこれからが始まりなのだ。こういうことはこれからもあるだろうし、いちいち慌てふためいていては身がもたない。料理だけではなく、精神的な面でも精進しなければ。
 しかし、いきなり接吻というのは流石に驚いた。市子たちだって、そこまで進んでいるかどうか。やっぱり斎藤は大人だ。大人の男と付き合うのは大変そうである。
「そ……そうなんですけど、びっくりしちゃって頭がうわーってなっちゃって………」
「それはお互い様だ。婿入り前の裸を見られて、こっちもびっくりしたぞ」
 笑いながら斎藤に話を蒸し返されて、もあの時のことを思い出して顔を真っ赤にする。
「見てません! 一寸しか!」
「………見てるじゃないか………」
 うっかり口を滑らせてしまって、斎藤をドン引きさせてしまった。
 せっかくお付き合いまで話が進んだのに、これはまずい。一寸しか見ていないのは事実なのだから―――――もしかしたら一寸どころではなかったのかもしれないが―――――兎に角そこははっきりとさせておかなくては。
「本当に一瞬ですって! もう全然印象に残ってませんから!」
「それはそれで何か………」
 何だかよく分からないが、斎藤を傷つけてしまったらしい。覚えていないと言えばほっとするかと思いきや、そうでないとそれはそれで落ち込むとは、難しい男である。
「分かりました! じゃあ責任を取ります! 一寸とはいえ、見ちゃったわけですし」
 こういうのは男が言う台詞のような気がしないでもなかったが、こうなったらもう勢いである。
 ドンと胸を叩いて力むの姿に、斎藤はきょとんとした。が、すぐに可笑しそうに笑い出す。
「お前、本当に面白い奴だな」
 まさか、今までの流れは冗談だったのだろうか。斎藤は真顔で冗談を言うから油断ができない。
 斎藤と本格的に付き合うとなると、この調子で毎日振り回されそうである。振り回されすぎて、の神経が参ってしまいそうだ。冗談なのか本気なのか、見極める修行もしなければ。
 は耳まで真っ赤になって、
「だって警部補がっ………!」
「ま、責任は取ってもらうかな」
 の反応がよほど可笑しかったのか、斎藤は笑いを噛み殺しながら言った。
<あとがき>
 というわけで、告白成功です。……成功だよね?(笑)
 告白されてすぐにちゅうだなんて、斎藤も手が早い。「大人だから」ってわけじゃないと思うぞ。騙されるな、部下さん(笑)。
 今回は斎藤も災難だったけど、終わりよければすべてよし、ってことで。
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