言おうかな言ったらこまるほんとのことむねがどきどきでも言おうかな
かつては貴人しか口にすることのできなかった氷も、交通が発達した現代では庶民の口にも入るようになった。もちろん安いものではないけれど、夏の一寸した贅沢だ。これまで斎藤と何回か食事に行ったことはあるけれど、ちゃんと席のある店は初めてだ。座って落ち着ける店というだけで、は大興奮である。
「私、雪がいいです!」
「じゃあ、雪とみぞれで」
斎藤が店員に注文する。
店員が去った後、はおしぼりを手に取る。夏場らしく、ひんやりとして気持ちいい。
手を拭きながら他の席を観察すると、少し離れた席の中年の男がおしぼりで顔を拭いていた。冷たくて気持ちいいから、顔も拭きたくなるのだろう。これで拭いたら汗も引きそうだ。
今まで気にもしていなかったけれど、歳を取るとおしぼりで顔を拭く男は多い。手を拭いて顔も拭く一連の動作が実に自然で、一定の年齢になればそんなものだと思っていたけれど、斎藤はどうなのだろう。
手を拭くのに集中しているふりをして、は斎藤の様子を観察する。癇性のように手を拭いているけれど、一向におしぼりを顔に持っていく様子は無い。
斎藤はまだ顔まで拭く歳ではないのだろうかと思ったけれど、あまり長々と手を拭いているのを見ると、もしかして顔を拭くきっかけを探しているのかもしれないと思えてきた。がいるから格好付けているのかもしれない。
もしの目を気にしているのだとしたら、一応女として見られているということだから嬉しいけれど、気取らなければならない間柄は長続きしないと聞く。これからずっとお付き合いをしていくのなら、斎藤が気兼ね無くおしぼりで顔を拭けるような女にならなくては。
は思いきって、おしぼりで顔を覆った。擦らなければ化粧はそれほど落ちないはずである。
これで斎藤も遠慮無く顔を拭くかと思いきや、唖然としたように言った。
「………何やってんだ、お前?」
斎藤が気を使わずに済むように勇気を出したはずが、引かれてしまったようである。行動で示すより、口で言った方が良かったか。しかし口で言うのも言い方が難しい。
折角おしぼりで冷えたというのに、は顔を真っ赤にして、
「けっ……警部補が私に気を遣って顔を拭けないんじゃないかと思ってっ………」
「悪いが、おしぼりで顔を拭く習慣は無い」
ここで笑ってくれればも気が楽なのに、斎藤は真顔だ。
「私だって無いです!」
「いや、無理をすることはない。存分に拭くがいい。俺は気にしない」
思っていたのとは真逆の展開になってしまった。がおしぼりで顔を拭く習慣のあるオッサンのような女だと思われていたら、最悪だ。
折角の“逢い引き”がいきなりこれだなんて、もうどうしたらいいのか。これを巻き返すなんて、余程の技を使わないと無理だろう。
「だから私じゃなくて警部補が―――――」
必死に弁解している途中で、斎藤が笑いを堪えていることに気付いた。また茶化されたらしい。
「お前、面白いな」
笑いを隠すように斎藤は顔の下半分を口で覆う。
いい感じの雰囲気に持っていこうとしているのに、いつもこれだ。ある意味距離は縮まっているのかもしれないけれど、“面白い”は何か違う。
がむくれていると、斎藤は笑いをおさめて、
「悪い悪い。だが、何かからかいたくなるんだよなあ」
署内での斎藤は、冗談なんか言わない男である。気難しくて何を考えているのか判らない、という評判だ。も、こうやって一緒に帰るまでは、とても真面目な人だと思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。
今更ながら、“孤高の人”とか“寡黙”とか、の勘違いだったような気がしてきた。思い返してみれば、痔だの片思いの相手への告白だの、話題にしているのはその辺のオッサンと同じだ。というか、おしぼりで顔を拭かないこと以外はその辺のオッサンだ。
はこれまで、斎藤のことを勘違いし続けていたのではあるまいか。実際、こうやって親しくなってみると、孤高でもなければ寡黙でもない。どちらかというと話好きな気がする。
けれど、そういう斎藤の一面を知って、冷めたということは無い。誘われるのは嬉しいし、今だってドキドキしている。
孤高の人でなくても寡黙でなくても、たとえその辺のオッサンだったとしても、やっぱり斎藤がいい。仕事に対する姿勢は相変わらず格好良いし、他のどの署員よりも尊敬できる。上司としても、今では斎藤以外に考えられない。
「警部補って、最初の頃の印象と随分違いますよね………」
斎藤の下に配属されたての頃は、もっと話しかけづらい印象だった。いつも不機嫌な感じで、を拒絶している雰囲気さえ感じたものだ。
斎藤は一寸考えて、
「お前も最初の印象とは随分違ったぞ。もっとこう……大人しいというか、気が小さいというか」
「あー………」
気が小さいのは今も変わらないと思うのだが、斎藤にははどう見えているのだろう。
そうこうしているうちに、店員がかき氷を持ってきた。
「わあ、綺麗」
目の前のかき氷を見たら、今までの会話も全部吹き飛んでしまった。真っ白な氷の上に真っ白な砂糖がふんだんにかけられていて、本物の雪山のようだ。
「昔は粗悪な氷が出回っていたが、最近は取り締まりが厳しくなったからな」
早速蜜のかかった氷の山を突き崩しながら、斎藤は無感動に言う。氷の質が良くなったから、こんな綺麗な雪山が作れるようになったということか。
崩すのが勿体無いくらいだが、も雪山を崩して口一杯に頬張る。
「う〜………」
キーンと頭が痛くなるけれど、これこそがかき氷の醍醐味だ。甘くて冷たくて、夏はこれが一番である。
斎藤は少しずつ口に入れながら、
「一気食いすると腹壊すぞ」
「平気ですよ。お腹壊したこと無いですもん」
冷たい物を食べ過ぎると腹を壊すというけれど、は一度もそういう経験が無い。きっと胃腸は丈夫なのだろう。
異動したばかりの頃は、こんな他愛ない話なんかできない雰囲気だった。斎藤が想像していた通りの性格だったら、今でもできなかったと思う。そういう意味では、彼が想像を裏切る性格で良かったのかもしれない。
「そういえば、想像していたのとは違うって、どう違うんだ?」
「あっ……あれは………」
ぽろっと言ってしまったことだけに、は焦ってしまう。勝手に想像して勝手に違うと思うなんて、よく考えなくても失礼だ。
どんな言い方をしても失礼になるならと、は思いきって正直に言った。
「警部補って、もっと話しにくい人かと思ってたんですけど、そうでもないんだなって。冗談も好きみたいですし」
「それは相手にもよる」
視線を落としてかき氷を崩しながら、斎藤は応える。
「同じように話しても、面白い奴と面白くない奴がいるからな。俺は人付き合いが得意じゃないから、付き合う相手は選んでると思う」
「ああ………」
気難しかったり、寡黙な印象しか周りに与えないのは、斎藤の方から周りを避けていただけだったのか。署内の飲み会にも参加していないようだし、周りも敬遠して勝手な噂を流すものなのかもしれない。
と一緒にいる時の斎藤が本当の姿だとしたら、彼はにだけは気を許してくれていると考えてもいいのだろうか。少なくとも、積極的に誘ってくれているのだから、付き合いたくない人種とは思われていないだろう。
人付き合いの苦手な斎藤から接触してくれているのなら、これは確実に脈ありのような気がしてきた。今だったら、告白したら上手くいくかもしれない。
勢いで口走りそうになってしまったが、一呼吸おいて考え直す。とは積極的に交友を持とうとしているけれど、本当に“交友”止まりだったらどうするのか。“話して楽しい女”と“恋人”の間には、越えられない壁がある。
それに、かき氷を食べながら告白というのは、いかにもお手軽だ。もう少し待てば一緒に月見ができるのだから、そこでやるのが一番だろう。雰囲気も出るし、そのときの状況次第では斎藤から何か言ってくるかもしれないではないか。
問題は、そこまでの精神力がもつかというところではあるが。毎日顔を合わせて、告白しようと悶々とするのは辛そうだ。しかし、時期を間違えると気まずい結果にもなりかねないし、やはりここは我慢のしどころだろう。
「どうした、難しい顔をして?」
の葛藤を知らない斎藤は暢気なものだ。怪訝な顔をして尋ねる。
「いえ、大したことじゃないです」
そう言って、はかき氷を口に押し込んだ。
昼間はまだ酷暑だが、夕方になると大分過ごしやすくなる。夏ももう終わりだ。
この夏はずっと、いろいろなことがありすぎた。異動してすぐに斎藤がいなくなったり、帰ってきたかと思えば怪我をしていたり。彼が関わった事件も、いつの間にか署内の話題にもならなくなり、何だかよく分からない数ヶ月だった。
けれど、この数ヶ月で斎藤と食事したり電話をしたり、としては大進歩だ。来月には月見も控えている。
何処でやるかは決まっていないけれど、遅い時間にやるのだから、斎藤もそれなりにのことを考えているのだろうと思う。これでただの上司と部下だと言われたら、人格を疑うくらいだ。
「そういえば、結局告白はどうするんだ?」
急に思い出したように、斎藤が尋ねた。今この話題を出すなんて、の心を読んでいるとしか思えない。
「あ、いや、それはですね………」
落ち着かなければと思うけれど、の顔はみるみる赤くなる。折角かき氷で身体を冷やしたのに、食べる前よりも体温が上がっているようだ。
斎藤はやたらとの告白を気にしているようだが、何か感じ取っているのだろうか。出張中もわざわざから電話をしていたし、“告白”の相手に気付いているのかもしれない。
気付いていて、それでもを誘ってくれているのなら、これは確実に告白は成功するだろう。どうせ気付いているのなら斎藤から言ってくれるのが一番いいのだけれど、そこはやはり彼にも立場というものがあるのだろう。上司から部下に告白するのと、部下から上司に告白するのでは、受ける側も周りの印象も全く違う。
そう思うと、部下であるからの告白の方が丸く収まる気がする。大人の事情が絡んでくると、色恋沙汰もややこしい。
「来月にしようかな、なんて………」
顔を上げられずにはぼそぼそと応える。斎藤がの出方を伺うように、も斎藤の出方を伺っているのだ。
月見の雰囲気に乗じてというのも大事だが、それ以上にもし失敗した時の傷を最小限にくい止めたい。これからも一緒に仕事をする相手だからこそ、慎重にいかなくては。
ここまで確実な雰囲気が漂っていても、心のどこかで振られてしまうのではないかという恐怖もある。こんな経験が今まで無かったから、必要以上に臆病になってしまっているのだろう。
けれど、いつまでも怖がっていては前には進めない。電話の時だって、なけなしの勇気を振り絞って上手くいったではないか。きっと次も上手くいく。
自分を奮い立たせたり、起こってもいないことに怯えたり、人を好きになるというのは大変なことだ。こんなに思い悩んでいるのに全く痩せないのが不思議なところであるが。
「来月か……まだ先だな」
どういうつもりなのか分からないが、斎藤はしみじみと呟く。
来月なんてにはすぐに感じるのだが、斎藤には遠い先に感じるのだろうか。だとしたら、この場で告白するのがいいのか。あまり時間を置きすぎると、気持ちが冷めてしまうとも聞く。
夕暮れの帰り道で告白というのも悪くはないけれど、やっぱり駄目だ。今はまだ心の準備ができていない。告白は勢いだというけれど、勢いづける心の準備が必要なのだ。
「来月なんて、すぐですよ。そうだ、お月見の約束、忘れないでくださいね」
できるだけ軽い調子では言う。
「ああ。何処に行きたい? 神社とか公園でも観月会をやるらしいぞ」
「警部補と一緒なら、何処でもいいですよ。二人きりになれる所がいいですねぇ」
言ってしまって、ははっと口を押さえた。これでは魂胆が丸見えではないか。
斎藤も少し驚いた顔をしたが、誤魔化すように、
「まあ、人が多いのはあんまりな………」
何と続けていいのか迷っているのか、斎藤は困った顔をした。薄々感づかれているのかもしれないけれど、いきなり「二人きりになりたい」はまずかったか。
やはり勢いで告白しなくてよかった。告白はする方はもちろんだが、される方にも心の準備が必要なようである。
何とか空気を元に戻そうと焦るに、斎藤が少し間を置いて言った。
「その……お前さえよければ、うちというのもあるが………。安上がりでもあるし………」
言葉を選びながら言っているのだろうが、その歯切れの悪い斎藤の言い方にもはどきりとした。
斎藤の家で月見だなんて、告白する前なのにもう恋人同士のようだ。本当に二人きりで、もしかしたらが予想している以上の展開が待っているかもしれない。
来月のことなのに、は今から失神しそうだ。斎藤の家に上がったら、本当に倒れてしまうかもしれない。
倒れたら倒れたで、斎藤に介抱されるのかと思うと、興奮して鼻血が出そうである。もう斎藤の家に行くというだけで、は心身ともに大変な状態だ。
「家はいいですよ! 落ち着きますよ!」
舞い上がりすぎて、は自分で何を言っているのか訳が分からなくなってきた。こんな調子では斎藤の家で落ち着けるはずがない。
の異常な興奮ぶりに、斎藤の表情は引き気味だ。ひょっとしたら、誘ったのを後悔しているのかもしれない。
ははっとして、
「いや、あの、外よりも落ち着くかなって。人が多いのって苦手ですし………」
は人混みが苦になる性格ではないけれど、嘘も方便である。
「あ、うん。それならそういうことで」
まだ腰が引けているようだが、とりあえず斎藤の承諾を得ることができた。後はの行動次第である。
具体的に告白の日取りが決まったら、改めて緊張してきた。来るべきその日のためにができることは何だろう。まあ、とりあえず落ち着くことだろうが。
「お月見、楽しみにしてます」
「ああ、俺も楽しみにしてるよ」
それはの告白を楽しみに待っているということなのだろうか。斎藤の横顔が少し笑っているように見えた。
我が弟がおしぼりで顔を拭いていることに衝撃を受けた○年前の秋。いや、私の視線に気付いて直前で止めましたが(笑)。しかし、あの流れるような動作は絶対年季が入ってるに決まってる。
というわけで、斎藤も余裕でおしぼりで顔を拭くのではないかと思ったのですが、そこはドリームなんでね(笑)。でもオッサン仲間の師匠は人目を気にせずガッツリ拭きそうな気がします。超絶男前なんで、超絶格好良く拭いてくれることでしょう(笑)。