見てますか見えていますよきれいだね同じ月の下つながる心
かけ蕎麦を食べていると斎藤を思い出す。彼も今頃、かけ蕎麦を食べているのだろうか。関東と関西では汁が全く違うのだそうだ。特に京都は薄味だと聞く。薄味の汁というのはどんなものなのだろう。
味の無いかけ蕎麦だったら辛いだろうな、と想像してみる。かけ蕎麦は斎藤の主食のようなものだから、これが口に合わないとなると、仕事より苦労しそうだ。
「ちゃんと食べてるのかなあ………」
から見て、斎藤は食に対する関心が薄いように感じられる。忙しさにかまけて一日何も食べないとか、日常的にあり得そうだ。
向こうの部下がきちんと管理してくれていればいいのだけれど、そこまでしてくれるとは考えにくい。仮にそこまで面倒を見てくれる部下がいたとしても、それが女の部下だったりしたら、としては複雑だ。
京都府警にも女の職員はいるだろう。向こうでも女の部下が付いてるとしたら、もし向こうの女部下がよりもできる女だったり、よりも美人だったりしたら、あっさりと乗り換えられる危険性もあるということだ。乗り換えるも何も、まだとの仲は始まってもいないのだが、京都から女部下を連れて帰ることがあったらどうしよう。
距離があるということは、相手がどんな生活をしているか判らないわけで、不安は増大する。斎藤とはただの上司と部下で、それ以上の関係ではないから尚更だ。
「やっぱり電話した方がいいよね……」
未だに電話というのは慣れないけれど、そんな甘えたことは言ってはいられない。せめて声だけでも自分の存在を忘れられないようにしなければ、知らない女に横取りされる可能性だってあるのだ。
幸い、今日は飯島も残業しているようだ。少しだけ電話を借りて、の存在を忘れないようにさせなくては。
「また電話するのかい?」
の申し出に、飯島は少し困ったような顔をした。碌に話せないくせに機械を使いたがるというのは、飯島には理解できないものなのだろう。
「………すみません」
市子に頼まれているとはいえ、私用で何度も電話を貸すというのは、飯島も立場上いろいろとまずいことがあるのだろう。は恐縮した。
けれど飯島は小さく溜め息を付いただけで、困ったように苦笑した。
「まあいいけどんね。声を聞くだけでも嬉しいっていうのは解るし」
飯島もそうなのだろうかと思ったが、は黙っておいた。飯島と市子の付き合いも最近始まったばかりのもので、今が一番楽しい時期なのだろう。
斎藤のいつもと変わらぬ声を聞けるのは嬉しい。それ以上に、少しずつではあるが、二人の距離が縮まっていっていることを感じるのが嬉しい。もまた、今が一番幸せな時期なのだろう。
「ありがとうございます!」
「今日はちゃんと話せるといいね」
「えっ……あ…はい………」
飯島の口調が軽くてそのまま聞き流しそうになったが、部屋の外で聞いていたということなのだろう。聞かれて困るようなことは話してはいないけれど、は急に恥ずかしくなった。
本当に、今日はちゃんと話せればいいと思う。前も、その前もまともに話せなくて、黙っている時間の方が長いくらいだったのだ。いつも遅くまで残って忙しいだろうに、そんな電話に付き合わされて斎藤も内心迷惑しているかもしれない。
「ちゃんと話したいです……けど………」
何を話せばいいのかには分からない。一緒に蕎麦や寿司を食べた時も、特に中身がある話をした記憶はない。
もじもじしているを見て、飯島は可笑しそうに小さく笑った。
「そんなに難しく考えるから話せなくなるんだよ。好きな人が話すことなら何でも楽しいと思うけどな」
「すっすすすす好きな人っ………!」
は真っ赤になって動揺した。斎藤がをどう思っているかなんて分からないのだ。“好きな人”だなんて飛躍している。
本当に斎藤がのことを好きだったら、どんなにいいだろう。からの電話を楽しみにしていてくれて、わざわざ遅くまで残ってくれているのかもしれないと想像したら、それだけで胸がドキドキする。
「けっ……警部補は、そのっ………」
「まあまあ、照れなくてもいいから」
豪快に笑うと、飯島は部屋を出ていった。
好きな人が話すことなら何でも楽しい斎藤が出るのを待つ間、飯島の言葉を思い出す。
電話の間、斎藤は相槌を打つくらいだが、確かに声を聞けるだけでもは嬉しくなる。斎藤はの声を聞いて、どう思っているのだろう。
「もしもし?」
いつも通りの落ち着いた斎藤の声がした。
「あのっ………」
今日こそちゃんと話そうと思っていたのに、斎藤の声を聞いた途端、全部吹き飛んでしまった。いつものことながら、声が近くて、対面で話すよりドキドキする。
「ああ」
あれだけで斎藤は誰からの電話か判ったらしい。考えてみたら、こんな時間に電話をしてくる女なんて、くらいなものだろう。
残業の最中に電話をしてきて、しかも中身の無い話ばかりで、斎藤は迷惑に思っていないだろうか。いつもと変わらぬ声で出ているけれど、本当は
「すみません、お仕事中なのに………」
今更ながら自分のやっていることが非常識なことに気付いて、の声は萎んでしまう。
飯島に無理を言ったり、仕事中の斎藤のところに電話をかけたり、の都合を周りに押しつけてばかりだ。しかもまともな会話もできていないし、斎藤は面倒に思っているのではないだろうか。相槌しか打たないのも、そのせいのような気がしてきた。
「別に。丁度一段落ついたところだ」
「そうですか………」
一段落ついたというのが本当なのか、には分からない。本当なのかもしれないし、気を遣ってくれているのかもしれない。
「今日はどうした?」
「えっ………? あのっ、えっと………」
貴重な電話を使っているのだから、用事があると思うのが当然だ。も無理矢理用事を考えてきたけれど、流石に今回はネタ切れだ。
「えっと、用事っていうか、その………」
「俺の声が聞きたくなったか?」
「えっ………?!」
斎藤の言葉に、の心臓が止まりそうになった。
確かにその通りだ。こうやって飯島に頼んで電話を借りているのも、無理矢理用事らしいことを考えているのも、要するに斎藤の声を聞きたいだけ。だから会話にならなくても、相槌だけでも、ドキドキして嬉しくなる。
素直に認めたら、斎藤はどんな顔をするだろう。声を聞きたいだけで何度も電話しているなんて、呆れるだろうか。
「冗談だ。どうした?」
の返事を待たずに、斎藤は笑いを押し殺した声で言った。
冗談だったのかと、は脱力する。冷静になってみれば、斎藤はそういうことを言う男ではないのだ。
「あの………」
何か話題を探さなくてはと、は辺りを見回す。
「月が……月が綺麗ですね」
「は?」
唐突すぎたか、斎藤は頓狂な声を出した。
月が見えるのは東京だけで、京都は曇りなのかもしれない。声が近いから勘違いしそうになるが、東京と京都は遠いのだ。
「あっ、東京では綺麗なんですよ。だから京都もかなって………」
は慌てて付け加える。
少し間があって、斎藤が応えた。
「ああ、綺麗な満月だな。言われるまで気付かなかった」
返事に時間がかかったのは、外を確認していたらしい。
「京都でも見えるんですね。不思議な感じ………」
遠くにいるのに同じものを見て、声だけはこんなに近いなんて、不思議な感じだ。
斎藤も同じ月を見ている。遠くにいるけれど、そう思うと近くにいるように感じられる。
「警部補も同じ月を見てるんですね」
「月は一つしかないからな」
斎藤はどこまでも現実的である。彼らしいといえば彼らしい。
「ええ、そうなんですけどね………」
が言いたいのはそういうことではないのだが、斎藤相手ではいい雰囲気に持ち込むのは難しいようだ。
「遅くとも秋にはそっちに帰れる。中秋の名月は一緒に見られるかもしれん」
「………え?」
唐突な言葉に、は絶句した。これは一緒に月見をしようという誘いだと解釈してもいいのだろうか。
斎藤と月見だなんて、考えたこともなかった。には急展開すぎる。
「いっ…一緒にっ………!」
「先約があるのか?」
心なしか、斎藤の声が残念そうに聞こえた。
「滅相もないです! がら空きです! 予定なんて全然無いです!!」
は一気にまくし立てる。予定があったとしても、斎藤と月見ができるなら、全部お断りだ。
の勢いに圧されたのか、斎藤の反応は無い。予定がないことを強調したかったのだが、浮かれすぎて興奮しすぎてしまったようだ。
「あ、うん、予定が無いならいいんだが………」
斎藤の声は完全に引いている。せっかく斎藤から誘ってくれたのに、これでは無かったことにされそうだ。
斎藤から月見に誘ってくれたというのは、どう考えても部下以上に見ているということだ。彼のこれまでの行動から考えて、部下と親睦を深める目的ではないだろう。そういうことができる男なら、“孤高の人”なんかにはなっていない。
そういえば市子も、を立ち食い蕎麦や寿司に連れて行ったのは、斎藤にしては珍しいことだと言っていた。そういう所に連れて行ってくれたり、月見に誘ったり、斎藤はを特別な相手だと思ってくれていると考えてもいいのだろうか。
浮かれてしまいそうになるが、ここで焦って押しまくるのは危険だ。さっきの反応を見ても、が全力を出したら引いていたではないか。
としては一気に勝負を決めたいのだが、斎藤の出方を見ながら距離を詰めていくのが彼には合っているのだろう。
斎藤とは上司と部下で、おまけに歳も離れている。立場もそうだが、周りの目というのもある。市子と飯島のように短期決戦とはいけないのだろう。
心を落ち着けるためにそっと深呼吸をして、はゆっくりと言った。
「警部補とのお月見、楽しみにしてます。秋の月は、今日よりずっと綺麗でしょうね」
斎藤の隣で見る月は、名月でなくても美しいものだろう。一番好きな人見る月なのだ。綺麗でないはずがない。
けれど斎藤が隣にいたら、名月どころではなくなりそうでもある。月なんかより、斎藤ばかり見てしまいそうだ。
「まあ、中秋の名月だしな」
の気持ちは伝わっていないのか、斎藤の反応はあっさりとしたものだ。直球でないと伝わらないのかもしれない。直球で言ったとしても、斎藤は引いてしまいそうだが。難儀な男である。
「中秋の名月って言うくらいですしねぇ………」
結局、間抜けな返しになってしまった。
今一つ伝わらないままだが、とりあえず月見の約束を取り付けることはできたのだ。全く話せなかった頃に比べたら飛躍的な進歩である。今のところはこれで良しとしよう。
「お月見、楽しみにしてます。それから」
言っていいものか迷ったが、は思いきって言ってみた。
「早く帰ってきてください」
こうやって電話で話すこともできるけれど、やっぱり顔を見て話したい。また一緒に蕎麦や寿司を食べに行きたい。
斎藤の返事が無い。電話の向こうでどんな顔をしているのだろう。
いつ帰るかなんて、斎藤には決められないことだ。「早く帰ってきてください」なんて言われても、返事のしようがないのかもしれない。
「あ、いえ、すぐに帰るなんてできないとは思うんですけど、あのっ………」
「煩い上司がいなくて羽を伸ばしてるかと思っていたんだが」
「そんなことないです! 早く帰ってきてほしいです!」
羽を伸ばしているなんてとんでもない。斎藤のことを煩い上司なんて思ったことなんか無いし、いなくて寂しいと思っているくらいなのに。
が全力で否定すると、少し間があって斎藤が可笑しそうに笑った。
「そんなに必死にならんでもいいだろう。別に査定に何か書くつもりはない」
「そっ……そんなんじゃ」
「なるほど、俺がいないと寂しいか」
「えっ?! あっ、そのっ………」
この返しは予想していなかった。
寂しいかと言われたら、もちろん寂しい。だからこうやって電話をかけているのだ。けれどここで「はい」と言ってしまっていいものか。相手が斎藤なだけに反応が読めない。
頭に血が上って、は目の前が真っ白になる。直球過ぎず、それでいてきちんと伝わる巧い言い回しが思いつかない。
受話器を持ったまま一人でわたわたしていると、斎藤がいつもの調子に戻って言った。
「まあ、なるべく早く帰れるようにはする。じゃあ切るぞ」
その声が終わると同時に電話が切れた。
やっぱり素直に「はい」と言った方が良かっただろうか。そう答えたら、斎藤はどう答えただろう。
の気持ちはきちんと伝わっていると思いたい。月見に誘ってくれたのだって、伝わったから誘ってくれたのだろう。誘ってくれたのだって、きっとのことを憎からず思ってくれているからだ。
そう考えると、斎藤とは既に両想いのような気もしてくる。月見の夜に何かあるかもしれないとさえ思えてきた。
「うわー………」
今頃になって、は真っ赤になって顔を覆う。
斎藤のことを好きだというところで頭が止まっていて、実際に付き合うことになったことのことを考えたこともなかった。これからはそういうことも考えなくてはいけないのだ。
“お付き合い”というのは、具体的にどうすればいいのだろう。ここはやはり“先輩”の市子に相談するべきか。
大きく前進できたけれど、新たな問題には頭が一杯になった。
思わぬところで斎藤からのデートのお誘いです。部下さん、どんなデートをするかまでは考えてなかったのか……。同じ部下でも兎部下さんとは大違いだ(笑)。
斎藤も斎藤で、茶化してるのか何なのか。顔が見えないと、うっかりとんでもないことを言ってしまうこともありますが、斎藤もそういうタイプなのか?