触媒の力をかりてあなたへの反応式よ奇跡を起こせ

 斎藤がいなくなっても、の日常は普段と変わらず過ぎていく。最初の頃こそ執務室が妙に広く感じたものだが、今ではそれが当たり前のようになった。元々斎藤が此処にいることが少なかったから、そんなものなのかもしれない。
 斎藤はもう京都に着いた頃だろうか。手紙くらいくれないかなと期待していたけれど、には何の連絡も無い。機密性の高い仕事だから部外者に連絡できないのか、単に筆無精なのか。斎藤のことだから、両方あり得そうだ。
 便りが無いのは良い便りと言うけれど、こうも何も無いのは心配だ。葉書の一枚でもくれれば、それで安心できるのに。
「警部補、何も言ってこないの?」
 溜め息をつくに市子が意外そうに尋ねた。
「秘密が多いから、きっと何処にいるかも教えられないんだよ。しょうがないよね」
 斎藤の仕事のことは、が一番理解している。だから連絡が欲しいと愚痴るのも、本当は良くないことなのだ。
 が、市子はますます意外そうな顔で、
「あら、警部補からの連絡は逐一入ってるって聞いてたけど。途中で何か大捕り物があったみたいだけど、今はもう京都の警察署にいるって」
「えっ?!」
 それはには初耳のことだ。直属の部下である自分が何も知らされていないのに、どうして無関係な市子がそんなことを知っているのか。
 市子は人事課にいるから、人の動きは大体把握している。おまけに付き合っている相手は、薩摩閥の出世街道に乗っている男だ。よりは機密情報を手に入れる機会には恵まれているだろう。
 それにしたって、市子の耳に入る程度の情報がには全く入ってこないなんて。
 最後に斎藤と話した時、もしかしたら脈があるかもしれないと思ったけれど、の勘違いだったようだ。自分が何処にいるかも教えないなんて、はその程度の存在なのだろう。
 少し期待していただけに、落ち込みもひとしおだ。本当に、あの時告白しなくて良かった。
「警部補、本当に何も言ってこないの?」
 の尋常ではない落ち込み具合に、市子は恐る恐る尋ねた。
 これだけ落ち込んでいるのだから、わざわざ止めを刺すような言い方をしなくてもいいだろうに。が無言で頷くと、市子は困ったような顔をした。
「警部補なりに何か考えがあるんだと思うけど………。そうだ、向こうから連絡があるなら、こっちから連絡を取る方法もあるはずよ」
 市子は名案だと思っているようだが、下っ端のにそんなことができるのだろうか。手紙を書いたとしても、斎藤の手に渡る前に誰かに検閲される可能性だってある。そうなると迂闊なことは書けない。
 仮に直接手紙を渡す方法があったとしても、何を書けばいいのだろう。普通に考えれば近況を書いたりするものなのだろうが、のことだから余計なことを書いてしまいそうな気がする。
「手紙かぁ………」
「手紙が時間がかかって、届く頃にはまた何処かに行ってるかもしれないでしょ。今は電報や電話の時代よ」
 市子は偉そうに言う。電報ならうまくいけば即日届くし、電話はまるで目の前にいるかのように会話をすることができるのだ。何日もかかる手紙に比べれば、飛躍的な速さである。
 最近になって実用化されたとはいえ、電報も電話もまだ限られた人間しか使えないものだ。本庁にも電話機があるらしいが、は触るどころか見たことも無い。
「それって、偉い人しか使えないんでしょ?」
「飯島さんに頼んでみるわ。あの人の部署、電話機があるんですって」
 市子の中では決定事項のようだが、そう簡単に電話機なんて貴重なものを使えるのだろうか。そもそも、斎藤がいる警察署に電話機があるのかさえ怪しいのだ。
 あまり期待していない様子が見て取れたのか、市子は自信満々に、
「大丈夫よ。ほんの一寸借りるだけだもん。何とかしてくれるわ」
 市子には、最新機器を借りるなんて、大したことではないのだろう。その口調が、いかに軽く考えているかを表している。
 そういう軽いノリだから、はいまいち期待できないまま、曖昧に頷いた。





 全く期待せずにそのまま話を聞き流していたが、意外にもすぐに電話機を使える機会がやってきた。
 勿論、大っぴらに使えるわけではないから、時間は限られている。飯島が一人で残業をしている時で、使えるのも五分程度なのだそうだ。これくらいなら、通信記録を見られても“業務連絡”で通せるのだそうだ。
「はっきり言って規律違反だからね。ばれたら始末書ものだよ」
 飯島は困ったように苦笑した。よほど市子に頼み込まれたのだろう。
「………すみません」
 斎藤がどうしているのか知りたいというだけのことが、飯島まで巻き込むことになってしまって、は恐縮した。
 けれど、飯島は小さく笑って、
「まあ、相手が相手だからね。手紙じゃ捕まらないかもしれないから、しょうがないよ」
 薩摩閥だというから威張り散らす粗暴な男だと思い込んでいたが、飯島は顔に似合わず物腰の柔らかい男だ。市子が“良いところの出”だと言っていたけれど、こういうところに育ちが出るものらしい。見た目だけで勝手に判断していたことを、は反省した。
「藤田警部補も遅くまで残ってることが多いらしいから、今の時間でもまだいると思うよ。これが、警部補の部屋の電話番号。交換手が出たら、この番号を言うんだ」
「はい」
 飯島に紙を渡されて、いよいよ斎藤に電話をかけるのだと思ったら、心臓が飛び出そうなくらいドキドキした。
 この奇妙な機械を使って、これから遠く離れた斎藤と話すのだ。一体どんな感じなのだろう。
「じゃあ、僕は外で待ってるから。使い方はさっき一通り教えたから解るね?」
「え……あ、はい」
 本当に簡単にしか教わらなかったから、ちゃんと使いこなせるか不安だ。しかし飯島は自分の説明は十分と思っているようで、さっさと出ていこうとする。
「あの―――――」
「誰にも聞かれたくない話もあるだろ? 時間になったら声をかけるから、心置きなく話すといいよ」
 飯島も市子に言われて気を遣っているのだろう。そういうことではないのだが、何となく言い出しにくくなっては黙ってしまった。





 結局、詳しい使い方は習えなかったが、とりあえず受話器とやらを耳に当てて機械に向かって話せばいいことだけは確かだ。は思いきって受話器を取った。
「もしもし」
 少しの無音の後、知らない男の声が聞こえた。本当に、目の前で話されているような声だ。
 危うく受話器を放り投げて悲鳴を上げそうになってしまったが、流石にそれはぐっと堪えた。それでも動揺は抑えきれずに、は上擦った声で飯島に教えられた通りに言う。
「きっ…京都……京都警察の、あの―――――」
 何度も噛みながら、どうにか斎藤の電話番号を言った。
 伝わったのだろうかと我ながら心配になるくらいだったが、交換手には通じたらしい。のような人間は多いのだろう。
 機械の音のような奇妙な音がして、再び静かになった。
「……もしもし?」
 無音の後に聞こえたのは、さっきの交換手とは違う男の声だ。きっと京都府警の職員なのだろう。
「あっ……あのっ……ふっ、藤田警部補をっ………」
 斎藤の電話だと聞いていたのに、他の人間が出るなんて予想外だ。こんな時間に女から電話なんてどう思われるだろうと考えたら、それだけでの頭は真っ白になった。
 完全に舞い上がっているとは対照的に、男は落ち着いた声で、
「俺だが。もう上司の声を忘れたか?」
「えっ………?!」
 はそのまま絶句した。
 電話機を通した斎藤の声は、いつもが聞いていた声とは何か違う。しかし斎藤の声だと言われれば、斎藤の声のようではある。
 には違和感のある声だが、同じように違って聞こえるはずの彼女の声は斎藤にはすぐに判ったらしい。それほど特徴のある声なのかと思ったら、急に恥ずかしくなった。
「あっ…あのっ、私っ………」
 電話できたら、あれを話そうこれを話そうと考えていたはずなのに、全部吹き飛んでしまった。五分しかないのに、これでは何も話せない。
「どうした? わざわざ電話してくるなんて、何かあったのか?」
 斎藤の声は怪訝そうだ。わざわざ電話で連絡してきているのだから、何か重大なことが起こっていると思っているのかもしれない。
 電話なんて、緊急の連絡手段だ。ただの安否確認だと言ったら、怒られてしまいそうである。
「あのっ……音沙汰が無いから、だから………」
「死んだとでも思ったか?」
 そう言って、息が漏れるような音がした。きっと苦笑しているのだろう。
 今更気付いたが、電話機で話していると、まるで耳元で話されているようだ。実際は遠く離れているのに、声だけは今までで一番近い。
 最初は違和感のあった声も、慣れたらいつもの斎藤の声のように聞こえてきた。目を閉じたら、斎藤が間近にいるかのようだ。電話機というのは、何と素晴らしい発明なのだろう。
 自分の思いつきにうっとりしていると、無粋にも扉を叩く音がした。
さん、そろそろ時間だよ」
「えっ?!」
 流石に扉は開けられなかったが、飯島の声にはぎょっと下。まだまともに話していないのに、もう時間だなんて早すぎる。
 の突然の声に、斎藤も驚いたようだ。
「どうした?」
「あ、いえ………。この電話、内緒で五分だけ借りたんです」
「ああ………」
 それだけで斎藤は納得したようだ。どうして電話を借りたのは、本当は気付いているかもしれない。
 ただ声を聞きたかっただけなんて、斎藤が知ったらどう思うだろう。残り時間のことも相まって、はますます焦ってしまう。
「飯島さんが残業の時に少しだけ貸してもらえることになって、それで………」
「わざわざ借りるほど、急いで話したいことがあったのか?」
 声だけだが、斎藤が笑いを堪えているのが判る。やはりの目的に気付いているのだ。
 そう思ったら、の顔が自分でも判るほど紅くなった。この時ばかりは顔が見えなくてよかった。
 何とか尤もらしいことを言わなければと、は必死に考える。
「けっ、警部補が無事に京都に着いたかなって………」
「それだけか?」
 完全に斎藤は気付いているようだ。声が笑っている。
 ますます焦って頭が真っ白になるが、声が笑っているということは、からの電話は不快ではないということなのだろう。それとも、からかっているだけなのか。
 どうしようかと思ったが、思い切って正直に言ってみた。
「警部補と話がしたくて、その………」
 思い切った割に、どんどん声が小さくなっていく。とんでもないことを言ってしまったようで、今すぐにでも電話を切りたくなってきた。
「ふーん………」
 斎藤がどんな顔をしているのか、声だけでは判らない。くだらない理由だと思っているのか、それとも―――――
 斎藤の沈黙が怖い。目の前にいるわけでもないのに、息苦しくなってきた。
 沈黙に耐えきれずに声を出そうとした時、斎藤が言った。
「まあ、変わりなさそうでよかった。じゃあ切るぞ」
「………はい」
 本当はもっと声を聞きたいけれど、話題も時間も無い。声を聞けたのは嬉しかったけれど、これで終わりかと思うと、嬉しかった分だけ悲しくなる。
 今日はまともに話せなかったけれど、次はちゃんと話したい。また電話してもいいだろうか。
「また、電話しても良いですか?」
 次がいつになるか判らないけれど、次こそはちゃんと話したい。斎藤がの気持ちに気付いていて、それが迷惑でなければ、きっと許してくれるだろう。けれど断られた時は―――――
 固唾を飲んで斎藤の返事を待つ。心臓が破裂しそうだ。
 時間にすれば一瞬なのだろうが、にとっては長い沈黙の後、斎藤が言った。
「ああ、待ってる」
 想像以上の優しい声に、は思わず涙ぐんでしまった。
 斎藤はきっと、の気持ちに気付いている。それでこの返事なのだ。はっきりと口に出さないけれど、想いは通じている。
「はい」
 嬉しくて嬉しくて泣いてしまいそうで、今のにはそれだけ応えるのがやっとだった。
<あとがき>
 明治十二年当時、電話はやっと宮内省と工部省の間に開通したようです。多分東京〜京都間とか無理(笑)。
 このシリーズのタイトルが電電公社(現在のNTT)が民営化した時の最初のCMソングなんで、どうしても電話のシーンを入れたかったんですよ。次回も電話する予定です。
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