核心に触れることなく語りつつ肩並べ行く夕陽の街
出勤すると、斎藤が荷物を纏めていた。「何だ、早いな」
「はあ………」
それはの台詞である。斎藤が朝からいるなんて珍しい。いつもは何処かに寄ってからの出勤なのだ。
しかも見たところ、机の中の物は殆ど無くなっている。まるで異動前のようである。
斎藤が異動するなんて話は聞いてはいない。本人は勿論、人事の情報を逸早く掴む市子ですら何も言っていなかった。
斎藤に何か動きがあれば、すぐに市子の報告があるはずだ。それが無いということは、異動ではない。それなら何故、斎藤の机は異動前のように片付けられているのだろう。
「警部補こそどうしたんですか? 机の中………」
「一寸な………」
殻の引き出しを見られたのはまずかったのか、斎藤は少し気まずそうな顔をして引き出しを閉めた。
「出張の準備だ。明日から暫く京都に行ってくる」
「京都ですか………」
出張で京都とは羨ましい。も一緒に行きたいくらいだ。遊びで行くわけではないから観光は出来ないだろうが、一寸くらいなら外出は出来るとは思う。
出張だからといって非番が無いわけではないはずだから、一緒に出かけるのも可能なはずだ。京都の町を斎藤と二人で歩くなんて、想像しただけで楽しそうだ。
無理とは思うが、は一応言ってみた。
「私も一緒に言ったら駄目ですか? 此処での仕事と同じなら、お手伝いも出来ると思いますし」
「駄目だ」
予想はしていたが、即答されてしまった。少しは検討してくれることを期待していたのに、考える余地も無いような答え方だ。
確かに実務は何の役にも立たないだろうが、事務処理能力はも少しは自信がある。斎藤が絡む事件の書類は少し特殊なものが多いから、無効の人間に一から教えるよりはを連れて行くのが効率が良いと思うのだが。
「でも警部補、書類を作るの苦手じゃないですか。今だって私が全部やってるんですよ」
「〜〜〜〜〜〜」
親切のつもりで言ったのだが、斎藤は苦虫を噛み潰したような顔をした。事務処理が苦手なことは気にしていたらしい。
「書類手続きは全部こっちで終わってる。お前が心配するようなことじゃない」
「でも………」
手続きは終わらせていても、現地での報告書の作成などもあるはずだ。それはどうするのかと尋ねたかったが、本格的に斎藤が腹を立てそうだからやめておいた。
問題は、斎藤の机が空になっていることである。出張で必要書類を持って行く事は珍しいことではないが、机を空にしてしまうなんて聞いたことが無い。
「出張って、そんなに全部持って行くものなんですか?」
机を空にするなんて、まるで此処に戻ってこないみたいだ。出張なんて言っているけれど、そのまま京都に残る気さえしてきた。
そんなところと突っ込まれるなんて思っていなかったのか、斎藤は少し動揺したように見えた。
「こっちと同じ環境で働きたいんだ」
理屈としては解るが、机が空になるほど持って行くというのはどうなのだろう。これは出張どころではない。
「異動じゃなくて出張なんですよね?」
念押しでは訊いてみた。実は異動を視野に入れた出張だったなんて展開がありそうだ。
「ああ。長くなりそうだがな」
斎藤の口ぶりは、本当に出張のようだ。ただ、期限は無さそうである。
長いというのは、どれくらいだろう。それまでは斎藤の部下として留守番をしていられるのだろうか。
ただの出張とは言うけれど、何だか嫌な予感がしてきた。
「それ、身辺整理だったりして」
今朝のことを話すと、市子はとんでもないことを言った。身辺整理だなんて縁起でもない。今回はただの出張なのだ。
「出張で身辺整理?」
「だって、警部補の担当の事件、内緒だけど、密偵が相当動いてるみたいよ。川路大警視にも何度も呼び出されてるし、相当大きな事件じゃないのかなあ」
「警部補の仕事ならいつものことだし………」
そういいつつもの声は弱くなってしまう。
斎藤の事件で密偵が何人も動くのはいつものことだ。川路に呼び出されるのも、珍しいことではない。確かに最近は呼び出しが多かったが、斎藤の様子に変わりは無かった。
「それにね―――――」
市子が急に声を潜めた。こういう時は大体、爆弾発言が出る時だ。も覚悟して身を乗り出した。
「どうやら内務卿も関係しているみたいなの」
「内務卿って………」
いきなり話が大きくなってきた。
内務卿といえば、日本の事実上の最高権力者である。しかしつい先日、不平士族に暗殺された。
「どうもね、あの暗殺も警部補の事件に関係してるみたいなのよね」
「あれって解決したんじゃないの?」
新聞には、あの後すぐに実行犯が逮捕されて、斬首されたと書いてあった。最近流行りの不平士族による要人暗殺の一つで、大きな背後関係は無いと書いてあったのだが。
の言葉に、市子はかなり迷った顔をした。彼女が知っていることは、新聞とは随分違うらしい。
「これは絶対秘密なんだけどさ。飯島さんも口が滑ったみたいだし………」
何を知っているのか、市子にしては歯切れの悪い口調だ。けれどに話そうとしているということは、斎藤にも関係あることなのだろう。
機密関係には興味無いけれど、斎藤に関係のあることなら知りたい。身辺整理なんて縁起でもない言葉が出てくるなら尚更だ。
は市子に掴みかからんばかりに身を乗り出した。
「何? それって今回の出張に関係あるの?」
「あの事件の捜査も警部補の担当なんだけど、実行犯、別にいるみたいで………。それがどうも、これまでの反乱とは比べものにならない組織みたいなんだよね」
市子も詳しいことは知らないらしい。飯島がうっかり漏らしてしまったことをそのまま言っているだけなのだろう。
斎藤はあの西南戦争で勲章と報奨金をもらったほどの男だ。反政府組織がどれほどのものであったとしても、無事に戻ってくる―――――と思いたい。
けれどあれが身辺整理だったとしたら、斎藤は帰ってこれないと覚悟しているのだろうか。そんな危険な仕事だなんて雰囲気は全く感じられなかったのだが。
斎藤が帰って来ないかもしれないと思ったら、一気に血の気が引いて気持ち悪くなってきた。斎藤と会えなくなるなんて、想像もできない。つい最近になって、やっと普通に話せるようになったのだ。これからという時になって、これだなんて。
「あ、でも大丈夫だよ! 警部補、殺しても死ななそうだし。机を片付けるのもゲン担ぎかもしれないし。ほら、迂闊に死んだら困るように、旅行前にわざと家を散らかす人とかいるでしょ。それの逆で、準備してたら無駄になるっていうのもあるし」
の様子を見てまずいと思ったのか、一個は早口で一気にまくし立てる。
ゲン担ぎにしても身辺整理にしても、斎藤が危険な任務を負っているのには違いない。斎藤の仕事が特殊で危険なのは解っていたことだが、死ぬかもしれないなんて考えたこともなかった。
考えたくはないが、斎藤が戻ってこなかったらどうしよう。斎藤と会えなくなるかもしれないと思うだけで、は息も出来ないほど胸が苦しくなった。
荷物を纏めた後、斎藤は何処かへ出かけたきり姿を見せることは無かった。出張のことも任務のことも訊けずじまいだ。
このまま何も訊けずに別れてしまうのかと思うと、は悲しくなってきた。せめて見送りくらいはしたかった。
市子に協力してもらって斎藤の部下になったというのに、付き合うどころか告白すら出来なかった。こんなことになるなら、思い切って告白しておけばよかったと思う。社交辞令かもしれないが、から告白されたら嬉しいと言っていたではないか。
斎藤がいないなら、これといって仕事が無い。もうこんな時間だし、斎藤が戻ってくることも無いだろう。
しょんぼりしてが執務室を出ようとした時、斎藤と鉢合わせた。
「よかった、まだ帰ってなかったか」
「………警部補」
急いで来たのだろう。斎藤は肩で息をしている。
「忘れ物ですか?」
他に言うことがあるだろうに、一番どうでもいい事を訊いてしまった。
執務室にはもう斎藤の物は無い。それこそ彼がいた痕跡が無いくらいにだ。今更忘れ物なんて無いだろう。
「そんなところだ。折角だから一緒に帰るか」
「えっ……あ、はい」
驚きながらも、は反射的に返事した。
忘れ物はどうしたのだろうと思ったが、訊くのは野暮というものだろう。斎藤は手ぶらで、執務室に入ろうとする気配も無いのだ。
“忘れ物”がと話すことだったら嬉しい。危険な任務に就く前の最後の息抜きなだけかもしれないけれど、その相手に選ばれたことが嬉しい。
「折角だから、いつものお蕎麦屋さんで夕ご飯食べて帰りません? 警部補、ご飯まだでしょ?」
「いや、時間が無いんだ」
間髪無く断られてしまった。立ち食い蕎麦屋にも寄れないくらい時間が無いのだろうか。
そんなに余裕が無いのにと一緒に帰る時間を作ってくれたなんて、少しは自惚れてもいいのだろうか。期待しすぎはいけないけれど、少しは期待してもいいような気がしてきた。
斎藤から何か言ってくるだろうかと期待していたけれど、歩いても歩いても無言のままだ。これは一緒に変える意味があるのだろうかと、は疑問に思えてきた。
一緒に歩きながら、はちらちらと斎藤の様子を窺う。これはから話しかけるべきなのだろうか。しかし何から話していいものか分からない。
出張の事を訊くのは厳禁だろう。市子の話が本当なら、のような下っ端に話せるようなことではない。
それなら何を話せばいいのだろう。このままでは、もうすぐいつもの分かれ道に着いてしまう。
当たり障りのないことを、と全力で考えて、は思い切って言葉を発した。
「出張、頑張ってください。大変なお仕事とは思いますけど………」
「ああ」
斎藤の反応は薄い。ありきたりすぎて、返事のしようが無いのか。
「あと、身体には気をつけてくださいね。掛け蕎麦ばっかりじゃ駄目ですよ」
「まあ、その辺りはなあ………」
これには斎藤は苦笑した。が言わなければ、本当に掛け蕎麦だけで過ごすつもりだったのかもしれない。
「駄目ですよ、身体が資本なんですから。ちゃんと元気に東京に戻ってきてくれないと―――――」
そこまで言って、は口を噤んだ。
あまり喋りすぎると、が知るはずのないことまで喋ってしまう。表向きは、は何も知らないことになっているのだ。
そのまま黙っていると、斎藤が小さく息を漏らすように笑った。
「そうだな。無事に東京に戻らないと、お前の告白の結果も聞けなくなってしまう」
「………………っ!」
予想外の言葉に、の顔は一瞬で真っ赤になってしまった。
の告白ネタは、斎藤のお気に入りらしい。それにしたって引っ張りすぎだ。
そもそもが告白したい相手は、斎藤なのだ。目当ての相手に弄られ続けるなんて、対応に困る。
「お前の告白、楽しみにしてたんだがなあ。帰ってくるまでお預けか」
「いや、あの………」
ひょっとして斎藤は、の気持ちに気付いているのだろうか。しかし話の流れを考えると、気付いていないようにも感じる。
一体どっちなのだろう。斎藤の考えが読めなくて、の頭はぐるぐる回る。
仮に告白したとして、この斎藤の様子なら受け入れてもらえるのだろうか。けれど今言ってしまったら、大事な任務を抱えた斎藤の負担になってしまうだろう。すっきりするのはだけだ。
だから、今はまだ言えない。
「それは出張が終わった後の楽しみにしていてください」
笑顔を作って、は明るく冗談めかして言う。
「そりゃ、何が何でも東京に戻らんといかんな」
斎藤も一緒になって笑った。
原作の京都行き直前です。この後、斎藤は剣心のところへ向かうのだと思います。自分が主人公さんと名残を惜しんできたから、「神谷の娘とは名残を惜しんできたか?」なんて台詞が出てきたんだろうな(笑)。
しかしこの斎藤、誘い受けすぎだろ(笑)。もう部下さんの告白待ちの状態じゃね?(笑)