ろうかはね一番ドキドキする場所なのだってあなたに会うかもしれない
廊下を歩く時、はいつもドキドキしている。“あの人”とすれ違うのではないかと、いつも期待している。“あの人”は藤田警部補というらしい。歳は三十五歳。西南戦争で勲章と報奨金を貰ったことがあるというから、きっと強くて勇敢な人なのだろう。
痩せぎすで背が高くて、人を寄せ付けない雰囲気があって、まさに“一匹狼”といった感じだ。業務内容が謎に包まれているのも良い。
藤田の仕事は、のような一般職員には知らされていない。与えられた執務室に出入りできるのは限られた職員だけで、彼らも業務内容については堅く口を閉ざしている。
業務内容も謎なら経歴も謎で、会津にいたとか京都にいたとか、斗南だ東京だと、出身も訊く人によってバラバラだ。家族がいるのかも判らない。要するに、仕事も私生活も謎だらけなのだ。
謎に包まれた孤高の人なんて、小説の中だけの存在だと思っていた。現実にもそんな人がいるなんて驚きだ。
そんな小説の登場人物みたいな男だから、は気になって仕方がない。話しかけてみたいけれど、あの独特の雰囲気に後込みしてしまって、今はまだ廊下ですれ違いざまにチラ見するのが精一杯だ。
今日こそ声をかけてみようと決心した時は空振りで、心の準備ができていない時に限って遭遇してしまう。そんなことを何度も繰り返してきた。立ち話なんて贅沢は言わないから、挨拶くらいはしてみたい。挨拶ができたら、今度は顔を覚えてほしい。顔を覚えてもらったら、次は立ち話をして―――――
「うーん………」
贅沢は言わないなんていっても、やっぱり行き着く先はそこである。女学生ではないのだから、見てるだけ、なんてありえない。
とりあえず挨拶から始めないとなあ、などとぼんやり考えていると、いきなり脇の扉が開いた。
「ぅわっ………?!」
「失礼」
出てきたのは藤田警部補だ。と扉がぶつかりそうになって一寸驚いた顔をしたが、声は冷静である。
とにかく挨拶だ。「お疲れさまです」と一言言えば、一歩進める。
簡単なことなのに、心臓がバクバクする。「お疲れさまです」という言葉が頭の中をぐるぐる回る。
「あ、あの、おつ―――――あれ………?」
やっと声が出たと思ったら、いつの間にか藤田の姿は消えていた。忙しい人だから、の挨拶を待ってなどいられないのだろう。
せっかく絶好の機会に恵まれたというのに、あっさりふいにしてしまった。こんな間近で会うのは滅多にないのに、なんと勿体無いことをしたことか。
「ああ〜、もぉ〜!!」
挨拶もまともにできないなんて、小心者すぎる。次の機会があるかは分からないが、次こそは、とは決意を新たにした。
「あ〜、もう、ホント最悪!」
心底忌々しげに、は小鉢の馬鈴薯に箸を突き立てた。
最悪なのは勿論、千載一遇の機会を逃した自分自身だ。今思い返しても、あれは無かった。つくづく惜しいことをした。
「最悪なのは、あんたの男の趣味じゃないの?」
そう言って、同期の市子が味噌汁を啜る。しれっとした顔でキツいことを言う女だ。
「いっちゃんに言われたくないわ〜」
は即座に反論する。
こう言っては何だが、市子が粉をかけている男は酷い。背が低くて、ずんぐりしていて、おまけに馬鈴薯みたいな顔だ。藤田よりも若いけれど、あれは無いとは思う。
が、市子は涼しい顔で、
「何言ってるの。飯島さんは警視総監と同じ薩摩出身よ。しかも地元じゃ、結構なお家らしいじゃない。あれは出世するね。男は中身よ」
「中身っていうなら、警部補だって、仕事できると思うよ。西南戦争では大活躍だったらしいし」
「あの人はあれで頭打ちだと思うよ。会津の人でしょ? 警察は薩摩じゃないと出世できないみたいだし」
「そりゃあ、まあ………」
そこを突かれると、は口ごもってしまう。
御一新で身分制度は無くなったとはいうものの、出身による格差は残っている。市子の言うように、薩摩出身の者は明らかに優遇されているし、元幕臣や幕府に付いていた藩の出身者は出世が遅いようだ。藤田が会津出身という噂が本当なら、今でも出世できている方だろう。
それならそれで、やっぱり藤田は仕事ができる男なのだから、の男の趣味は悪くない。出世は頭打ちだとしても、ちゃんと有能な男を選んでいるではないか。
「出世はともかく、仕事はできる人だもん」
拗ねたように口をとがらせて、は弱々しく反論した。
が、市子は更に強い口調で、
「男は出世してナンボでしょ。ちゃんも将来性のある男を捕まえなって。女の人生は男次第なんだからさ」
市子の言うことは、まあ正しい。夫となる男が出世すれば、妻である自分の立場も自動的に引き上げられるのだ。出世しそうな男を見分けることが、彼女の言う“男を見る目”なのだろう。
思えば入庁以来、市子は同期とその前後の職員に関する情報収集に余念がなかった。堂々と「出世しそうな男を探しにきた」と言っていて、職場に一体何をしに来ているのだろうと呆れたものだ。その後、「本当は軍人狙いだったけど、募集が無かったから警察で妥協した」と告白された時は、その根性に清々しい感動を覚えた。性格が真逆の市子と仲良くやっているのは、どぎつい上昇志向の中に潔さがあるからだと、は思っている。
「そりゃそうだけど………」
「せっかく此処に潜り込めたんだもん。一発逆転狙わなきゃ損だよ」
「う〜ん………」
市子の強烈な上昇志向は、自身が“負け組”に属しているせいもあると思う。彼女の家は幕臣だったらしい。御一新で没落したのを、ここで一気に巻き返したいという思いが強いのだろう。
その気持ちは、も痛いほど解る。彼女も、父親が彰義隊に参加して戦死した“負け組”なのだ。けれど、市子ほどきっぱりと割り切れない思いもある。
それは多分、市子は没落した父親の姿を見て育って、は戦死した父親を美化して育ったせいかもしれない。そしては心のどこかで、会津出身だという噂の藤田に、自分の父親の姿を重ねているのだろう。
「それにさ―――――」
それまで勢いのあった市子の表情が、少し暗くなる。
「負けた男は駄目だよ。一回挫折したら、もう駄目だと思う」
“負けた男”は、父親のことを指しているのだろう。
自分の欲望をあけすけに語る一方で、市子は自分の家族や生い立ちについてはあまり語らない。彼女の家のことを知ったのは、が家族のことを話してからだ。互いの家庭のことは、何となく二人だけの秘密にしている。
「うん………」
は小さく応えた。警部補は違うと思う、とは言えなかった。
何も言えないまま、は馬鈴薯を口に押し込んだ。
市子の言葉を思い返しながら、は廊下を歩いている。
負けた男は駄目だと言うけれど、じゃあ勝った男が良いかというと、それも微妙だ。薩摩閥の者は、御一新の時に何もしていない連中まで、自分が天下を取ったような大きな顔をしている。あの戦争で活躍した人間がそうするのは仕方ないと我慢できるが、そうでない者まで傲慢な態度というのはどうかと思う。
と市子は若い女だからちやほやされているところがあるけれど、派閥から外れた男性職員の扱いは気の毒に思うことが多い。そういうのを見て、市子は威張っている薩摩側にどうにか食い込みたいと思っているようだけど、は冷遇されている側に共感してしまうのだ。
父親のこととか、そういう職場の空気が合わさって、藤田のことを好きになったのだと思う。何より、この空気の中でも薩摩の連中におもねることなく孤高を貫いている姿勢に、好感を持った。
市子の言うことは正しいのかもしれないけれど、藤田に限っては違う。あの人は特別だ。
「あ………」
向こうから藤田が歩いてくるのが見えた。珍しく連れがいる。
今度こそ声をかけてみよう。自然に、さりげなく「お疲れさまです」と言うだけだ。
胸が高鳴るのを抑えつつ、はゆっくりと藤田たちとの距離を縮めていく。藤田たちは仕事の話でもしているのか、には気付いていないようだ。
声をかけるのはすれ違いざまがいいだろうか。あの様子では、はっきりと言わないと聞こえないかもしれない。
でも、大事な話の最中だったらどうしよう。話を中断させて、空気を読めない女だと思われるのは困る。だけど、そんなことをいちいち考えていたら、声をかける機会なんて永遠に来ない。
ぐずぐず迷っているうちに、藤田たちが目の前に迫ってきた。こうなったらもう、思い切るしかない。
「お疲れさまです」
心臓はバクバク、血管は破裂寸前だけど、意外と普通の声が出た。
一瞬、藤田の足音が止まったような気がした。
藤田がどんな顔をしているかは判らない。声をかけてみたまでは良かったものの、恥ずかしくて顔を上げられない。
挨拶くらいで大袈裟だが、にとっては清水の舞台から飛び降りるような一大決心だったのだ。これで反応が悪かったら、もう次は無いと思っている。
「お疲れさん」
手に汗を握っていたの耳に、その言葉がはっきりと聞こえた。素っ気ない声だったが、確かに藤田の声だった。
慌てて顔を上げたが、藤田たちはもう通り過ぎた後だった。
藤田はどんな顔で応えたのだろう。声の感じでは機械的に応えたようだったが、面倒臭いとか思われなかっただろうか。の方を見てくれていただろうか。
こんなに気になるくらいなら、きちんと顔を上げておけば良かった。けれど顔を上げていたら、きっと真っ赤になっていたに決まっているし、それなら俯いていた方が良かったか。
藤田の姿はとっくに見えなくなってしまっているけれど、まだ胸がドキドキしている。これからも暫くは、今日のことを思い出してドキドキするだろう。
だけど、声をかけることができて、本当に良かった。素っ気なくても、義理で返してくれただけだとしても、藤田が応えてくれたことが嬉しい。
藤田は外回りが多いようだから、次に会えるのがいつになるか判らないけれど、次はちゃんと顔を見て挨拶したい。次に挨拶した時、藤田はどんな顔をするだろう。
そのときのことを想像すると、はまたドキドキしてしまうのだった。
平成万葉集からの一首。このシリーズのタイトルは、全部ここから引っ張ってくる予定です。
14歳中学生の作品ですが、いいですね、こういうの。うーん、青春だ。主人公さんはもういい大人なんですけどね(笑)。
しかし“藤田”って書くと斎藤じゃないみたいですね。。小説はこういう時が困る。次回は“斎藤”って呼ばせるようにしたいです。